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harutanaoki's blog

シンガポール在住 春田直樹の日記

「開高健からのスピルバーグ ~子供と大人~」

私の釣魚大全 (文春文庫 か 1-2)

私の釣魚大全 (文春文庫 か 1-2)

 

どうもどうも。

元気でやっております。

正直、改めてブログを始めた当初はもう少し定期的に更新していく予定でおったのです。

しかし生活スタイルやリズムが何か一点変わるということは、

随分と他のところにも影響を及ぼすものなのだなーなどと考えつつ、

自らの脆弱な意志から目を背けております。

 

ただ実際のところ、これまでならばリハを終えた後、ライブを終えた後、という風に

何かを書き留めるきっかけというものが自然と生まれておったのですが、

会社勤めということになりますと、これが中々に難しい。

かといって、何も書かないで1ヶ月以上経ちますと、妙に背中やふくらはぎの辺りが

モゾモゾとしてきて、いてもたってもいられなくなる。

何かが足りない、何かやり残している気がしている。

これはやはり、「背中が泣いている」、あるいは「うしろ姿は嘘をつかない」などと

申しますように、人間の本音というものは常に身体の背面に表れるものなのだと、

勝手に納得しております。

にも関わらず「いざ週末」ということになると、妙にグッタリしている、

あるいは読書に耽り込んでしまい、気付いたらもう日曜の夜11時を回っておる、

ということもしばしばであり・・。

 

とにかく自分に合った新しいリズムを作らなにゃならん。

すなわち「時間配分」や「計画性」と言われる、苦手意識という名の酸っぱい胃液が

喉元にせり上がってきそうな、そんな分野に取り組む必要性を感じておる近頃なのであります。

 

さて、タイトルにあります通り、今週末はかの芥川賞作家・開高健の「私の釣魚大全」

を読み耽っておりました。

私の世代(1978年生まれ)になりますと、開高健の存在は小説好きか、釣り好きか、

あるいは高倉健との勘違いでしか触れる機会が無いことかと思われますが、

私の場合は完全に「釣り」経由でありました。

なので氏の小説に対しては、食指が動いておらず。

 

それにしても、未だ見ぬ巨大魚、怪魚を求めて世界を釣り歩くという行為は、

格闘家がさらなる強豪を求め、世界を渡り歩く行為と等しく、

少年の心に対してはメガトン級の破壊力を持っておるのであります。

正確には、少年の心に対して“のみ”、というべきでしょうか。

もちろん少年の心とは、成人男性が残しているそれも含んでおります。

対して、年齢を問わず女性陣にはこの手の話は全くもって受けが悪い。

どうして同じ人間、こうも違うのかと思うのでありますが、とにかく受けた試しが無い。

なので女性を前にこの手の話題を振ったことも殆ど無い。

とは言いつつも、とてもタイプの女性が目の前にいたとして、そのナイスな口元から

「大山倍辰は、実戦での強さという意味ではちょっと分からないよね」とか、

「あーモンゴルにタイメン釣りに行きたいなー」などといったフレーズが飛び出したとすれば、

我が腰は微妙に引けてくるというのも、揺るがぬ事実であります。

 

話を戻して・・・、

大人になるにつれて、そういった冒険じみたことへの感度が鈍っていくのが常です。

少年から大人に向かってデジタルに移行していくものではないのですが、

あれこれ忙しくなってくると、日々の仕事に実用性の無いものは後回しになり、

「退職後の楽しみでいいか」、ということになり、次第に現実との接点が薄そうな

類のものには手が伸びなくなる。

 

しかし子供の頃に形成された「子供の感覚」と言うものは、それはそれは根深く

強力なところがあり、あれやこれやと「大人の理屈」でねじ伏せようとしても、

どうにもこうにも手に負えないのであります。

それこそ悪ガキの如く、小ウルサイ大人達が眉を顰めるような悪戯ごとを絶えず企み、

その鼻を明かす痛快なイベントを心待ちにしておるのです。

 

その性質が仕事に繋がって、子供の感覚も日常的に発揮でき、満たされるような

生き方が出来ている人は問題ないのでしょうが(そういう人は大抵、子供の頃にすでに

早熟して、大人の理屈というものを察知している場合が多いように思いますが)、

そうでない場合は、うまくそれを操っていくしかないのです。

それをあまりに放置し過ぎると、日常生活を保つ「大人」の方までバランスを崩して

しまうように思われます。

 

 私の場合は、その「子供の感覚」の求めるものが「映画」「音楽」「釣り」「格闘技」

などであり、大人として生きていく上においても、やはりそれらは必須項目なのであります。

これは全くもって、言い訳などでは無いのです。

何らかの形をもってそこに没入する時間失くしては、オカシナことになるのであります。

 

オカシナことというのは、それこそ万引きでもやらかしてしまうかも知れないし、

痴漢でもしでかしててしまうかも知れない。

あるいは目の色を変えて「原発デモ」に参加し始めたりするのかも知れない。

自分が思いもよらぬ形で、肥大した子供が顔を出してしまうのであります。

(もちろん原発デモにおいては、明確な意思と論理を持って参加されている方も

いらっしゃるかと思いますが、少なからず「みんなで集まってワイワイやりたい」とか

「大人を困らせたい」という単純な子供の欲求が、もっともらしい理屈を纏って

現れているように映ります。)

 

必要な時に「大人」が十分に機能するためにも、「子供」にはしっかりと向き合う

べきであるわけです。

重ねて述べますが、これは、全く生産性の無い自らの週末に肯定感を持たせるため、

だけではありませんので悪しからず。

 

 

そんなわけで開高健の「私の釣魚大全」。

随分と脳内フィッシングを楽しませてくれました。

実際に釣りに行けばいいという話もありますが、それはたまにで良いのです。

何も考えずにブラリと海や川に行って成果が上がるほど「釣り」というものは

甘くないのです。

 

場所柄、季節柄、その他最新の釣果情報などを総合的に検討し、行くべき時にのみ

行けば良いのです。

すなわち、脳内ロッドのしなりや、脳内リールの軋み、あるいは脳内キャッチの興奮を、

リアルが超えてくれる可能性を嗅ぎ取った時にのみ、リアルロッドを担いで

リアルフィッシングに出掛ければ良いというわけです。

はたまた、何ともなしに糸を垂れることこそが風流である、とまで枯れた感性は

持ち合わせてないのであります。

 

しかもシンガポールは海に囲まれておりながらも、釣り好きにとっては全くもって

不利な国家であります。

あるのは釣堀のみで、自然の海川には魚が殆どおらんのです。

もし万が一身近に「シンガポールに南国の大魚を釣りに行くつもりだ」と息巻いている方が

おられましたら、

「脳内フィッシング目当てですか? でなければお止めなさい。砂漠に釣りに行くのと

同じことですよ。」と忠告してあげて頂きたい。

私も、いくら都市国家とは言え赤道直下の南国であるんだから、沖縄程度に魚影は

濃いだろうと想定しておりましたが、その点においては恥ずかしながら全くの大ハズレでした。

かつてはたくさん釣れたようですが、人が釣り過ぎたことや、タンカーが多くなって

水質が汚れたことなど、釣れなくなる理由はやはり世界中どこでも同じようであります。

 

そんなわけで、部屋の中でゴロゴロと脳内フィッシングを堪能しておったのですが、

書中、かつてシドニーで四つのドラム缶と子豚一頭を使って人喰いザメを仕留めた

釣り師がいたというエピソードに出会うや否や・・・、はたと読む手は止まり、

瞬時にして、とある映画の脳内ウォッチングが開始されたのであります。

子供の頃に何度も何度も繰り返して観た、あの・・・

 

背中に黄色いタルを打ち込まれたまま潜っていく巨大なモンスター・・

猛スピードで追いかけてくる黄色いタル・・

最後には喰われてしまった髭のオッチャン・・

 

そう、不穏なコントラバスが鳴り響く中始まったのは、不朽の名作、スピルバーグの

「ジョーズ」であります。

これはもう今だに私の選ぶ映画ベスト1か2に入り続けている作品なのですが、

そのエピソードと全く同じようなシーンが出てくるのです。

 

いかんいかん、これはいかん、もはや脳内だけでは気が済まんということで、

itunesを起動し検索してみると、ちゃんとありました。

残念な品揃えで有名なitunesを、初めて褒めてあげたい気持ちになったのです。

 

(続く)